先日、野田首相や関係三閣僚たちによる“自由討議(メモも録音も残さない雑談だったそうです)”を経て決定された大飯原発(福井県)の再稼働方針は、関西電力や経済産業省の言い分を充分な精査もせず丸のみにした結果のように思えてなりません。
再稼働方針を決める根拠となったのは、関西電力の夏の電力需給見通しでした。
しかし、この見通しが本当に信用できるものなのか、発表される数字は疑問だらけなのです。
例えば、政府が「一昨年並みの猛暑であれば18、4%不足する」と発表した際の根拠となった数字は、関西電力管内で過去10年間に記録したピーク時の電力量3095万キロワット(一昨年8月19日)だそうですが、実はあの猛暑時でさえ関西電力の火力発電所稼働率は4割にしかすぎなかったそうです。
そもそも昨年3月の原発事故により全国的に節電意識が高まっているにもかかわらず、それを全く考慮せず、一昨年8月19日のピーク時(わずか数時間)に記録した電力量のみを根拠に「18、4%不足する」と試算するのは、あまりにも安易過ぎるのではないでしょうか。いや、単に安易であるというよりも、初めに結論があってその結論を導き出すために試算していると思われても仕方ないのではないでしょうか。この冬にしても、関西電力は9、5%も不足すると試算していたにもかかわらず、実際は供給量の95%でさえ超えた日は1日もなかったのですから。
原子力発電はウラン採掘現場の労働者や鉱山周辺地域の住民たち、そして、発電所や使用済み核燃料再処理施設の労働者たちを日々被ばくさせることによって成り立っています。また、昨年3月の原発事故では、都会で電力の恩恵を享受する私たちに代わって多くの福島県民が難民のような暮らしを余儀なくされてしまいました。そうした多くの人たちに報いるためにも、私は再稼働に断固反対します。
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再稼働、断固反対!
さよなら原発
未曾有の天災とそれに誘発されて起きた取り返しのつかない人災・・・。
3月11日に起きた大惨事と現在も進行中の深刻な事態について
何か言いたいと思っても、長いこと語るべき言葉が見つかりませんでした。
重い現実を前にすると、ヤワな言葉はあっけなく弾き飛ばされてしまうようで、
口から出かけた言葉を呑み込んでしまうしかありませんでした。
私はもともと原発に反対でした。以前ブログにもそのように書いたことが
ありました。(てくてくコラム「そりゃないぜ」2008年9月25日)
けれども、絶対にあってはならないことがいざ起きてしまうと、
それ以前の自分にはいかに危機感が欠けていたか、よくわかります。
口先で反対を唱えつつ心のどこかで、社会の流れがそうなら仕方ないか・・・
と半ば無意識的に思っていたような気もするのです。
こうした二面性は、専門家の端くれだった父(故人)にもあったように
思います。父は旧日本原子力研究所(東海村)が設立された翌年(1958年)
から定年(1974年)まで、保健物理部安全管理課に所属していましたが、
在籍中は典型的な“安全神話”の信奉者でした。
ところが、その父が定年退職して数年経った頃、何かの話がきっかけで
話題が原発の安全性に及んだとき「ずっと前からいつか大きな事故が起きるかも
しれないと思っていた」と言ったのです。嘘をついていたという自覚もなく、
全く別の人格に成り代わって当たり前のことを言っているような口調でした。
思えば、父の赴任にともない一家が東京から水戸に引っ越した頃、原子力は
社会の希望であり明るい未来の象徴のような存在でした。
まだ子供だった私は、父が原研に勤めていることを誇らしく思ったことも
ありました。しかし、そもそも「原子力の平和利用」とは、度重なる核(兵器開発)
実験に対する国際社会の非難をかわすために当時の米国が立てた戦略に基づいた
ものであり、その結果、世界中に核を拡散させることになってしまったのでした。
仮に、まだ核を保有していない世界中の国々が(運良く)「平和利用」のみに
限定して核の技術を導入し、その結果、至る所に無数の原子力発電所ができた
としても、この地球上にはやがて危機的な状況が訪れるに違いありません。
勤勉で組織力があり緻密な作業が得意なはずの我々日本人が、このような
取り返しのつかない大きな事故を起こしてしまったのですから、こうした事故は
世界中のどこで起きても不思議ではないのです。
私たちは、今こそ「原子力の平和利用」について問い直すべきではないでしょうか。
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3月11日に起きた大惨事と現在も進行中の深刻な事態について
何か言いたいと思っても、長いこと語るべき言葉が見つかりませんでした。
重い現実を前にすると、ヤワな言葉はあっけなく弾き飛ばされてしまうようで、
口から出かけた言葉を呑み込んでしまうしかありませんでした。
私はもともと原発に反対でした。以前ブログにもそのように書いたことが
ありました。(てくてくコラム「そりゃないぜ」2008年9月25日)
けれども、絶対にあってはならないことがいざ起きてしまうと、
それ以前の自分にはいかに危機感が欠けていたか、よくわかります。
口先で反対を唱えつつ心のどこかで、社会の流れがそうなら仕方ないか・・・
と半ば無意識的に思っていたような気もするのです。
こうした二面性は、専門家の端くれだった父(故人)にもあったように
思います。父は旧日本原子力研究所(東海村)が設立された翌年(1958年)
から定年(1974年)まで、保健物理部安全管理課に所属していましたが、
在籍中は典型的な“安全神話”の信奉者でした。
ところが、その父が定年退職して数年経った頃、何かの話がきっかけで
話題が原発の安全性に及んだとき「ずっと前からいつか大きな事故が起きるかも
しれないと思っていた」と言ったのです。嘘をついていたという自覚もなく、
全く別の人格に成り代わって当たり前のことを言っているような口調でした。
思えば、父の赴任にともない一家が東京から水戸に引っ越した頃、原子力は
社会の希望であり明るい未来の象徴のような存在でした。
まだ子供だった私は、父が原研に勤めていることを誇らしく思ったことも
ありました。しかし、そもそも「原子力の平和利用」とは、度重なる核(兵器開発)
実験に対する国際社会の非難をかわすために当時の米国が立てた戦略に基づいた
ものであり、その結果、世界中に核を拡散させることになってしまったのでした。
仮に、まだ核を保有していない世界中の国々が(運良く)「平和利用」のみに
限定して核の技術を導入し、その結果、至る所に無数の原子力発電所ができた
としても、この地球上にはやがて危機的な状況が訪れるに違いありません。
勤勉で組織力があり緻密な作業が得意なはずの我々日本人が、このような
取り返しのつかない大きな事故を起こしてしまったのですから、こうした事故は
世界中のどこで起きても不思議ではないのです。
私たちは、今こそ「原子力の平和利用」について問い直すべきではないでしょうか。
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別子飴本舗の生姜茶
このところ寒い日が続いて、風邪やインフルエンザなども流行っているようですね。大きなマスクをして外出する人も多いように思いますが、ウイルスの侵入を防ぐには体を温め免疫力を高めておくのも効果的です。
そこで、今回ご紹介するのは、JR新橋駅近くのアンテナショップ“せとうち旬彩館”で見つけた別子飴本舗の生姜茶です。高知県産の生姜と愛媛県産のレモンにみかん果汁、水飴、蜂蜜を加え作られているそうです。見た目は、お茶というよりもまるでマーマレードのようです。ティースプーン3杯ほどをカップに入れ、お湯を注いでいただきます。生姜とレモンの香りが絶妙にマッチしていてとても飲みやすく、体の芯からポカポカしてきます。
東洋医学では、昔から「生姜なしには漢方は成り立たない」といわれているそうですが、今でも医者の処方する漢方薬の80%近くに生姜が含まれているそうです。生姜は体を温め血のめぐりを良くし、免疫力を高めてくれるので、風邪やインフルエンザの予防にも最適です。

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そこで、今回ご紹介するのは、JR新橋駅近くのアンテナショップ“せとうち旬彩館”で見つけた別子飴本舗の生姜茶です。高知県産の生姜と愛媛県産のレモンにみかん果汁、水飴、蜂蜜を加え作られているそうです。見た目は、お茶というよりもまるでマーマレードのようです。ティースプーン3杯ほどをカップに入れ、お湯を注いでいただきます。生姜とレモンの香りが絶妙にマッチしていてとても飲みやすく、体の芯からポカポカしてきます。
東洋医学では、昔から「生姜なしには漢方は成り立たない」といわれているそうですが、今でも医者の処方する漢方薬の80%近くに生姜が含まれているそうです。生姜は体を温め血のめぐりを良くし、免疫力を高めてくれるので、風邪やインフルエンザの予防にも最適です。

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“かがやき”の石窯焼きパン
我が家の食事はご飯が中心ですが、2日に1度位はパンもいただきます。パンは添加物を使っていない自然食系のものを購入するようにしています。主に自然食品店や以前ご紹介した旗の台の“スピカ麦の穂”などで購入するのですが、月に1度位は知的障がい者の授産施設“かがやき”(水戸市)から石窯焼きパンを送ってもらっています。
大谷石の大きな石窯で焼き上げる“かがやき”のパンはどの種類もとても美味しいのですが、特におすすめなのは“クルミとレーズンのカンパーニュ”でしょうか・・・。香ばしいクルミの風味とほんのり甘いレーズンの香りが絶妙にマッチしていて姿かたちも美しいので、食事にはもちろんのことコーヒータイムのおやつなどにも最適です。

“かがやき”
大谷石の大きな石窯で焼き上げる“かがやき”のパンはどの種類もとても美味しいのですが、特におすすめなのは“クルミとレーズンのカンパーニュ”でしょうか・・・。香ばしいクルミの風味とほんのり甘いレーズンの香りが絶妙にマッチしていて姿かたちも美しいので、食事にはもちろんのことコーヒータイムのおやつなどにも最適です。

“かがやき”
毛皮のこと
いやー、今年の夏はほんとに暑かったですねー。なんでも6・7・8月の平均気温が気象庁の観測史上最高だったそうで、夏が大好きな私も、おいおいいい加減にしてくれよ、と言いたくなるような暑さでした。
そんな暑さもまだ記憶に新しいというのに、ようやくやって来た秋を一息いれる間も与えずに追い立てるような北風。そう言えば、記録的な猛暑が続いた年は厳寒の冬がやって来る、とどこかで聞いたような気がします。
ちょうど風邪をこじらせていつになく弱気になっていた私は、厳しい寒さに備えて防寒着を買うことにしました(もともと私は異常な速さで歩く癖があるので防寒着らしい防寒着を持っていなかったのです)。早速ネットで検索して、着やすい、抱えて走りやすい、色やデザインが好みと3拍子揃っていそうな“ホリスター”のジャケットを買おうとしたら、なんとスタッフのコメントに「裏地のファーがゴージャスですよ!」と書かれてあるではありませんか。万が一ということもあるので、念のため電話で問い合わせてみることにしました。
「あー、それはですねー、うちの女の子がファーって書いちゃったようなんですが、フェイクファーです」「あ、そうなんですか。写真ではちょっとわかりにくいんですが、見た目もいかにもフェイクっぽい感じですか?」「そうですねー。やはりフェイクって感じですねー」「あ、それを聞いて安心しました」・・・ってなわけで早速購入したのですが、つい先日、急に冷え込んだ日に着てみたら、これがまた暖かいのなんのって・・・!
ところで、皆さんは毛皮についてどう思われますか? 私はゴージャスなリアルファーのコートを見ると反射的に目をそむけてしまいます。無残だな、かわいそうだなと思ってしまいます。すぐに動物たちの死骸が目に浮かび、そうした負のイメージとともに着ている女性を見るからでしょうか、それとも単なる偶然からなのでしょうか、60年生きてきてこれまで毛皮のコートを着た人で美しい人に出会ったことがありません。(リアルファーのコート1着のためにミンクならおよそ24匹、キツネならおよそ12匹が使われるそうです)
先日、著名なファッションデザイナー、ステラ・マッカートニーさんのナレーションによる毛皮養殖場の実態を撮影したビデオをみる機会がありました。自らを着飾るという人間の欲望のために狭いケージに閉じ込められ、生まれた時から大地を踏むこともなく針金のすのこの上で苦痛に満ちた数ヶ月を過ごし、やがて肛門と口に電気棒を突っ込まれ殺されていく動物たち・・・。
また、数年前のことですが、中国の毛皮養殖場を撮影した短縮版のビデオをみたことがあります。地面にたたきつけられもがき苦しんでいるタヌキの手足を次々と切断し、切断した切り口から毛皮を剥いでいく場面と、全身の毛皮を剥ぎ取られたタヌキかアライグマが、断末魔の苦しみの中で血まみれのボロ切れのような半身をよろよろと起こしかけ、そのまま力尽きて倒れる場面でした。背後では作業員たちが何か言葉を交わしていて、身の毛もよだつような残虐行為をとてもいやいややっているようには見えませんでした。
私はこうした映像を思い出すたびに、世界中の戦場で行われてきた残虐行為とどこかでつながっているように思えてなりません。生まれながらに残忍な人が戦場で残虐行為を行うのではなく、戦場が人々の心を壊し、まるで当たり前のように残虐行為をさせるように、消費者のニーズがある限り毛皮養殖場も人々の心を壊し、いとも簡単に残虐行為をさせてしまうのではないでしょうか?
コートの襟や袖、ダウンジャケットのフード、ブーツ、バッグなど、部分的に毛皮をあしらったものはいわゆる毛皮というイメージとは隔たりがあるのかもしれません。でも、たとえわずかな毛皮であっても、食肉の副産物として生産される皮革製品とは本質的に違うと思うのです。こうした比較的安価な毛皮は殆どが中国産だそうですが、何も考えずに毛皮を身につけている人たちが、自分の夫や恋人、父親や息子たちがこれほどまでに残虐な仕事をして(させられて)いると知ったなら、それでもまだ毛皮を身につけようと思うでしょうか?
北極圏やシベリアの人たちが昔から着ている実用的な毛皮については、ある程度止むを得ない面もあろうかと思います。でも、単なるファッションのための毛皮は動物たちをこんなに苦しめることまでして手に入れなければならないものなのでしょうか・・・? 毛皮は動物たちを極限の苦しみの中で死に至らしめるだけでなく、多くの人たちの心を壊し感覚を麻痺させることによって日々生産され消費されているのではないでしょうか・・・?
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そんな暑さもまだ記憶に新しいというのに、ようやくやって来た秋を一息いれる間も与えずに追い立てるような北風。そう言えば、記録的な猛暑が続いた年は厳寒の冬がやって来る、とどこかで聞いたような気がします。
ちょうど風邪をこじらせていつになく弱気になっていた私は、厳しい寒さに備えて防寒着を買うことにしました(もともと私は異常な速さで歩く癖があるので防寒着らしい防寒着を持っていなかったのです)。早速ネットで検索して、着やすい、抱えて走りやすい、色やデザインが好みと3拍子揃っていそうな“ホリスター”のジャケットを買おうとしたら、なんとスタッフのコメントに「裏地のファーがゴージャスですよ!」と書かれてあるではありませんか。万が一ということもあるので、念のため電話で問い合わせてみることにしました。
「あー、それはですねー、うちの女の子がファーって書いちゃったようなんですが、フェイクファーです」「あ、そうなんですか。写真ではちょっとわかりにくいんですが、見た目もいかにもフェイクっぽい感じですか?」「そうですねー。やはりフェイクって感じですねー」「あ、それを聞いて安心しました」・・・ってなわけで早速購入したのですが、つい先日、急に冷え込んだ日に着てみたら、これがまた暖かいのなんのって・・・!
ところで、皆さんは毛皮についてどう思われますか? 私はゴージャスなリアルファーのコートを見ると反射的に目をそむけてしまいます。無残だな、かわいそうだなと思ってしまいます。すぐに動物たちの死骸が目に浮かび、そうした負のイメージとともに着ている女性を見るからでしょうか、それとも単なる偶然からなのでしょうか、60年生きてきてこれまで毛皮のコートを着た人で美しい人に出会ったことがありません。(リアルファーのコート1着のためにミンクならおよそ24匹、キツネならおよそ12匹が使われるそうです)
先日、著名なファッションデザイナー、ステラ・マッカートニーさんのナレーションによる毛皮養殖場の実態を撮影したビデオをみる機会がありました。自らを着飾るという人間の欲望のために狭いケージに閉じ込められ、生まれた時から大地を踏むこともなく針金のすのこの上で苦痛に満ちた数ヶ月を過ごし、やがて肛門と口に電気棒を突っ込まれ殺されていく動物たち・・・。
また、数年前のことですが、中国の毛皮養殖場を撮影した短縮版のビデオをみたことがあります。地面にたたきつけられもがき苦しんでいるタヌキの手足を次々と切断し、切断した切り口から毛皮を剥いでいく場面と、全身の毛皮を剥ぎ取られたタヌキかアライグマが、断末魔の苦しみの中で血まみれのボロ切れのような半身をよろよろと起こしかけ、そのまま力尽きて倒れる場面でした。背後では作業員たちが何か言葉を交わしていて、身の毛もよだつような残虐行為をとてもいやいややっているようには見えませんでした。
私はこうした映像を思い出すたびに、世界中の戦場で行われてきた残虐行為とどこかでつながっているように思えてなりません。生まれながらに残忍な人が戦場で残虐行為を行うのではなく、戦場が人々の心を壊し、まるで当たり前のように残虐行為をさせるように、消費者のニーズがある限り毛皮養殖場も人々の心を壊し、いとも簡単に残虐行為をさせてしまうのではないでしょうか?
コートの襟や袖、ダウンジャケットのフード、ブーツ、バッグなど、部分的に毛皮をあしらったものはいわゆる毛皮というイメージとは隔たりがあるのかもしれません。でも、たとえわずかな毛皮であっても、食肉の副産物として生産される皮革製品とは本質的に違うと思うのです。こうした比較的安価な毛皮は殆どが中国産だそうですが、何も考えずに毛皮を身につけている人たちが、自分の夫や恋人、父親や息子たちがこれほどまでに残虐な仕事をして(させられて)いると知ったなら、それでもまだ毛皮を身につけようと思うでしょうか?
北極圏やシベリアの人たちが昔から着ている実用的な毛皮については、ある程度止むを得ない面もあろうかと思います。でも、単なるファッションのための毛皮は動物たちをこんなに苦しめることまでして手に入れなければならないものなのでしょうか・・・? 毛皮は動物たちを極限の苦しみの中で死に至らしめるだけでなく、多くの人たちの心を壊し感覚を麻痺させることによって日々生産され消費されているのではないでしょうか・・・?
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