健康いいもの情報

“みんなの健康舎”がご紹介する、ジミな情報です。

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優しく言い聞かせる

不思議なもので、子供の頃、親が優しく言い聞かせてくれたことは、
いつまでも心に残っているものです。それは単なる思い出として記憶
されているのではなく、親の伝えたかったことが実感を伴って心の深い
ところに定着しているように思うのです。昨今は子供や女性が一方的
な暴力を受ける事件が跡を絶ちませんが、そうした事件が起きるたび
に、私は幼児期の言い聞かせについて考えてしまうのです。

私の両親は、まったく対照的な性格でした。母は穏やかで寛容な博愛
主義者、父は激しやすくプライドの高い学歴至上主義者でしたから。
父は絵に描いたような亭主関白で、母や子供たちに怒鳴らない日が
ない位でした。幸い母や妹たち(2人)に手を上げることはありません
でしたが、男の兄弟たち(6人)が鉄拳制裁を受けることなど日常茶飯
事でした。一方、母が子供を感情的に叱るようなことは殆どありません
でした。そんな二人でしたから、注意や叱責の頻度はもとより言葉の
強さにおいても圧倒的に父の方がまさっていたのですが、なぜか今でも
心に残っているのは母の言葉なのです。

貧乏人の子沢山という言葉があるように、当時、我が家では1年おきに
子供が生まれていました。その頃(昭和20年代~30年代)は柳の枝で
編んだ行李(衣類入れや旅行用荷物入れに使用)に布団を敷き、その
中に赤ん坊を寝かせていたのですが、新しい兄弟が生まれるたびに
その周りを子供たちが取り囲み、授乳を観察したり抱っこをさせて
もらったりしていました。その時に母の言ったことの中には、首の座って
いない赤ちゃんはこうして抱っこするように、頭のてっぺんがふかふか
だからここは触らないように・・・などといった注意事項もありました。
でも、いちばん心に残っているのは、赤ちゃんをみんなで優しく見守って
あげよう・・・という単純で当たり前だけれど実感の籠った呼びかけ
でした。

兄弟たちの中には、中学に上がった頃から喧嘩が趣味のようになり、
たびたび警察沙汰を起こす者もいましたが、小さい頃に母が優しく
言い聞かせたことが効を奏したのか、両親や兄弟に対する暴力は
もちろんのこと、家の外でも弱い相手に暴力を振るうようなことはあり
ませんでした。その時代(昭和40年代)の空気のようなものも影響して
いるのでしょうか、当時の少年たちは、弱い相手に対して一方的に
暴力を振るうのは恥ずかしいことである、という倫理観を普通に持って
いたように思います。女性や子供や喧嘩の素人相手に一方的に暴力を
振るうのは恥ずかしいことである、という当たり前の倫理観は、いつ頃
から失われていったのでしょうか・・・?

私は30年近く前に知人の家で不思議な光景を目にしたことがありま
す。知人(編集者)は夫(画家)と子供2人の4人家族なのですが、当時
4歳の男の子と3歳の女の子がいたので、夫婦で協力し合って熱心に
子育てをしていました。お宅にお邪魔すると、女の子が私の傍に来た
ので、その子の名前を呼んで頭を撫でようとしたその時でした。男の子が
走って来て、いきなり女の子の頭を叩いたのです。女の子は火がついた
ように泣き出しました。私があっけに取られていると、父親が男の子を
抱きしめてやって「よしよし、○○くんはかわいそうだよね・・・」
などと言い、母親も「そうなのよね。まだ甘えたい時期なのに妹が生まれ
て・・・」と言いながら優しい目で男の子を見ているではありませんか。
私は「おいおい優しくするのはいいけど、その前に一言、言い聞かせる
べきことがあるんじゃないの・・・」と思ったのですが、もちろんそんな
ことは口に出さず、知人の話を聞きながら女の子をあやしていました。
すると、5分も経たないうちに再び男の子が走って来て、また同じことを
繰り返すのです。さすがに私も黙っていられなくなり「だめだめ!そんな
ことしないの。小さい子には、優しくしてあげなくちゃだめだよ・・・」
と言ったのですが、男の子はフンという顔をしてそっぽを向いていました。

また、別の知人の家でこんなこともありました。小学校5年生の男の子が
いやがる子猫を無理やり紙袋に閉じ込めようとしていたので「だめだめ!
虐めちゃだめ・・・」と言ったら、知人(母親)がむっとしたような顔で
こう言ったのです。「あら、子供の頃って、普通にそういうことをする
でしょ。私たちが小さい頃だって、セミの目をつぶしたり金魚のひれを
ハサミで切ったりしたじゃない・・・」中にはそういうことをする子も
いたかもしれませんが、自分より弱い相手に優しくする、というこの
単純で当たり前なことを、どうして子供たちに言い聞かせようとしない
のか不思議に思いました。私たち夫婦には子供がいないので、あまり
エラソーなことは言えませんが・・・。

『強い国家のためには立場の弱い沖縄は犠牲になるべきだ。原発事故は
もう起きてしまったことなのだから、ある程度まで除染したら被災者は
四の五の言わずに帰還し、自己責任で健康を管理し被災地の復興に励む
べきだ。兵器を作って平気で売ることにより他国の民間人が犠牲になった
としても、弱肉強食の世界で軍事経済大国になるためにはやむを得ない。
教育は個人のためにあるのではなく、強い国を作るためにあるのだから、
そのためには必要な人材を選別して育成し、教育格差をむしろ積極的に
活用すべきだ。教育格差や経済格差を活用することによって活力のある
格差社会、すなわち優秀な企業戦士や官僚、柔順な教師や自衛隊員を
育成し、政権の意のままに動かすことのできる社会を実現させるべきだ
・・・』ちょっと悪ふざけが過ぎましたが、極端に言えばこんな政治が
行われている現在では、子供たちに「自分より弱い相手には優しく」
などと言い聞かせるのは、なおさら躊躇してしまうのかもしれません。

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ベジタリアンと想像力

ベジタリアンというと、一般的には自然な欲望を抑え、敢えて窮屈な
生き方を選んだ人たちだと思われがちなのかもしれません。でも、
それは全くの誤解だと思います。ベジタリアンという生き方は、想像力
の翼を地球規模まで広げ(少なくともそれ以前よりは)すがすがしく
生きることを可能にしてくれるように思います。

ベジタリアンであるということは、それだけで想像力の翼をどこまで
も広げるチャンスに恵まれていることだと思います。なぜなら、食の
問題は環境問題を始め南北問題(経済格差や飢餓など)や水資源の
問題、健康と医療の問題、動物の権利と福祉の問題など、地球規模の
様々な問題と有機的につながっているからです。

もっとも、想像力の翼を広げるということは、考えようによっては面倒
なことでもあります。余計な想像力を働かせたりせず、自分の好き嫌い
や快不快、損得などに関わることだけを考えて生きた方が、気楽だし
現実的でいいという人もいるのかもしれません。自分と家族の健康だけ
を考え、有機野菜を中心とした安全な食事さえ提供できれば、原発の
再稼働や工場畜産の問題など考えたくないという人も中にはいるのかも
しれません。

ベジタリアンの中には、哺乳類から貝類や甲殻類に至るまで、ありと
あらゆる動物性のものを絶対に食べるべきではないと主張する人たちが
います。また、それとは対照的に、たまたまベジタリアンであるだけで、
どこに線を引くかは全く個人的な問題だと主張する人もいるようです。
どちらも間違いではないのかもしれませんが、願わくばもう少し具体的
に想像力を働かせて欲しいと思うのです。

なぜかというと、いっさいの動物性のものを同じ次元で食べるべきでは
ないと主張することは、物事の本質をかえって曖昧にしてしまうから
です。また、「目覚めた人」とそうでない人を画然と分けるような言い方
は多くの人たちの共感を得難いばかりか、どこに線を引くかは全く個人的
な問題だ(誰が何を食べようがいいじゃないか…)などという反発も招き
やすいからです。

普通の食生活をしていた人がベジタリアンになる理由は千差万別だと
思いますが、主に動物愛護、エコロジー、宗教、健康&美容の4つ位に
分けられるのではないでしょうか。このうち動物愛護やエコロジーは
いわゆる個人的な問題ではありませんから、主張する声もともすれば
大きくなりがちです。そのこと自体は必要なことであり、また主張の内容
も賛同できることが多いのですが「目覚めた人(=啓発する人)」という
意識が前面に出過ぎると、前述のように伝わるはずのことが伝わり難く
なるように思うのです。

動物愛護の観点から肉食について考える時、私たちはまず始めに、
肉になる牛や豚の苦痛や恐怖、悲惨な生涯などについて想像力を
働かせます。始めから、佃煮になるアサリやアミ(甲殻類)の苦しみに
ついて考える人は、滅多にいないと思います。なぜなら、牛や豚は私
たち人類と同じ哺乳類であり、豊かな感情や高度な(3歳児ほどの)
知能を持っているからです。神経組織や感覚器官なども人類とさほど
変わらないレベルまで発達しているので、彼らの苦痛や恐怖、悲しみ
などを容易に想像することができるからです。家族を形成する彼らは、
固有の生態に合った快適な環境であれば、子供や仲間たちばかりか
私たち人間にまで親愛の情を抱くことさえ容易に想像することができる
からです。

私たちはまず人類に近い動物たち(哺乳類や鳥類などの恒温動物)
の犠牲、とりわけ非人道的な工場畜産による天文学的な数の犠牲を
少しでも減らしていくために、より多くの人たちの共感を得る必要が
あります。そのためには、いっさいの動物性のものを同じ次元で食べる
べきではないと主張するのではなく、生物学的に見て人類に近い動物
たちの犠牲を少しでも減らすように働きかけていく方がより現実的である
ように思えるのです。こうした働きかけは、そのままエコロジー的観点
からのアプローチにも通じるものであり、比較的多くの人たちの賛同を
得やすいと思うのです。

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それでも私はリベラルでありたい

バージニア工科大学カリリオン研究所(米国)のリード・モンタ
ギュー教授によれば、「不快な写真に対する脳の反応だけで、
その人の政治信条が十分に予測できる」そうです。

教授らの研究グループは、次のような実験を行いました。まず
被験者たちに複数の画像を見せ、それぞれの画像を見た時の脳
の反応をスキャナーで観察します。この時の画像には、うじ虫や
動物の死骸、汚れた流しなどの不快な写真と、赤ちゃんや美しい
風景などの心地よい写真、そして快不快いずれにも当てはまら
ない写真などを混在させます。次に、同じ被験者たちに政治的な
話題、例えば公立学校における礼拝や同性婚、移民、銃規制など
についてのアンケートを行います。

その結果、不快な写真に強い嫌悪の反応を示す脳の持ち主は、
政治的に保守の傾向が強いということがわかったそうです。不快
なもの、不潔なものに対する嫌悪感の度合いは、遺伝的に受け
継がれた脳の“配線”によって異なるそうですが、この実験結果が
もし正しいとすれば、私などは気質的には超のつく保守ジジイなの
かもしれません。アメリカ人の被験者たち(83人)がもたらしたこの
実験結果をもって、人類全般の傾向であるかのように言うのは少々
無理があるとは思うのですが、もともとの気質ということになると、
実は私にも思い当たることがあります。

私と妻は19年前から東京臨海地区にある賃貸住宅で暮らしている
のですが、それ以前は巣鴨と大塚の中間辺りにある6畳2間の
アパートで暮らしていました。このアパートはセキスイハイムの鉄骨
2階建て住宅でしたから、ある程度、防音効果も考えて設計された
建物でした。
 
しかし、ある程度の防音効果など、型破りな隣人たちの立てる生活音
にとっては無きに等しいものでした。おまけに他県在住のオーナーが
いい加減な不動産会社にすべての管理を委せていたので、隣の部屋も
階下の部屋も又貸しに次ぐ又貸しで、誰が住んでいるのやらさっぱり
わからないといった有様でした。

当時、階下の部屋に住んでいたのはアジア系の外国人たちでしたが、
池袋辺りで夜の仕事をしているのか、深夜の3時頃に帰ってきて、
毎晩のように賑やかな食事会を始めるのでした。多い時は若い女性
たちが10人近くも住んでいて、床下から湧き上がってくるような
彼女たちのけたたましい笑い声には、ずいぶん悩まされたものです。
(「ニャーッハハハ…」と聞こえるので、我が家では階下の住人たち
のことをニャハハと呼んでいました)

私は悪意のない迷惑行為に対してはなるべく寛容でありたいので、
真夜中の笑い声は大目に見ていました。やがて、女性たちはどこか
に引っ越して行くのか、しだいに減っていって、最後に元締めらしき
男が1人残りました。30過ぎ位の目つきの鋭い男でしたが、この男は
女性たちがいなくなるとクスリか何かに手を出したのか、見るからに
すさんだ風貌になり、壁や天井をバットか何かで突いたりするように
なってしまいました。

こうなると、こちらとしても黙っているわけにはいきません。下から
突かれれば上から床をドスンとやり返し、近所で擦れ違えば睨み合う
というように、一触即発の険悪な状態になってしまいました。今では
笑い話ですが、私が外出する際は用心のために丸めた雑誌(とんでも
ない凶器になります)を持ち、いつでも速射砲のような(?)左ジャブ
を出せるようにしていました。幸いなことにゴロツキ同士のこの低次元
な争いはそれ以上エスカレートしませんでしたが、この男が道路に吐く
痰や換気扇から通路に滴り落ちる汚れた油への嫌悪感も相まって、
当時の私は愚かな敵意を募らせたものでした。

今にして思えば、あの時の嫌悪感やゴロツキ度100%の敵意が、
いつの間にか閉鎖的な正義感と結び付いたところにあるのが、例えば
あの恥ずべきヘイトスピーチだったりするのかもしれません。日本は
単一民族国家ではありませんが、大和民族が大多数を占めているため
異質な存在に対して臆病なDNAを受け継いでいる人が多く、そうした
ある種の潔癖さのようなものが保守的な気質とつながっているようにも
思えるのです。

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犬食は食文化だけの問題ではない

先日、高校時代の友人と話していたら、何かの話がきっかけになって
犬食のことが話題にのぼりました。「牛肉や豚肉を食べる人たちが、
犬の肉を食べる人たちを批判できないよ」と友人が言って、私が
「そりゃそうだよ」と答えたのですが、直後に「彼女の言いたいこと
と俺の思っていることは、だいぶ違うな・・・」と思ったのでした。

大学で中国文学を教えているその友人は「欧米の食文化を基準
にして他の文化圏の食文化を批判するのは間違っている」と言い
たかったのだと思いますが、私が本当に言いたかったのは「犬食に
批判的な人たちは、自分たちの肉食文化にも反省的な目を向けて
欲しい」ということでした。ノンベジの彼女とはこれまでにも肉食に
ついて何度か議論したことがあったので、その時は敢えて本当に
言いたいことは伝えませんでした。

特定の文化圏の食文化を基準にして他の文化圏の食文化を批判
するのは間違っている、というのは全くの正論だと思います。
にもかかわらず、犬食をこの論理に当てはめようとすると、私は
どうしても違和感を覚えてしまうのです。

少し話がそれますが、私は南京大虐殺や従軍慰安婦などの問題に
ついては、枝葉にこだわらず相手国の主張に対して謙虚に耳を傾け
“負の歴史”を直視すべきだと考える人間です。“ネトウヨ”の人たちに
言わせれば“反日”ということになるのかもしれません。

そんな私が中国や韓国、ベトナムなどの食文化である犬食に対して
普通の肉食以上に批判的なのは、そこにあるのは食文化の問題だけ
ではないと思うからです。誤解を恐れずに言えば、人権にもつながる
問題であると考えるからです。

犬は“人類の友”といわれるように、1万5千年も前から人類とともに
暮らしてきました。そのため、特に人とのコミュニケーション能力に
優れ、家族の一員として人を慕い人を信頼するような遺伝的形質が
受け継がれてきました。しかし、それだけの理由で、絶対に食べる
べきではない、などと言いたいのではありません。かつて家族の
一員として飼われていた個体が、人間の裏切り行為によって、いとも
簡単に食用になってしまうということ、そのことこそが一番の問題
なのです。

以前、私はこんな映像ニュースを見たことがあります。中国の中流
家庭で子供の情操教育のために飼われていた犬が、受験期に備えて
肉屋に売られ、悲惨な姿でがんじがらめに縛られバイクで運ばれて
行くという映像でした。また、タイなどでも家庭で買われていた犬が
食肉用に集められ、ベトナム向けに出荷されているといいます。

家族の一員として、人を慕い人を信じて生きてきた犬たちが、ある日
突然、肉屋に売られ“生きた肉”として恐怖の数日間を過ごし、無残
にも殺されていくのです。強壮効果を高めるため、わざと残酷な
方法でストレスを与えながら殺す場面も映像で見たことがあります。
犬はその時、大好きだった人間、信じていた人間のことをどのように
思うのでしょうか・・・?

これはまさしく人の心の問題だと思います。このようなことを平気で
する人たちも周りにいてそれを容認する人たちも、自分の心を知らず
知らずのうちに壊しているのだと思います。かつて家族の一員だった
犬たちにこれほど残酷な仕打ちをする人たちが、他者の痛みに対する
豊かな想像力を持ち得るとはとても思えませんから。

固有の食文化だから滋養強壮のために何が何でも食べたい、というの
であれば、せめて肉用に育てた個体のみにして、可能な限りストレス
を与えない方法で屠殺することによって、ようやく牛や豚を食べるのと
同じだという理屈が成り立つのではないでしょうか・・・?

 『国の偉大さと道徳的発展は、その国における動物の扱い方で判る』
                      マハトマ・ガンジー
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独裁は脆弱な民主主義に宿る

集団的自衛権の行使や他国軍への戦闘支援などが可能となる
安全保障関連法案は、残念ながら予想通り参議院でも強行採決
され、ついに昨日公布されてしまいました(来年3月までに施行)

強行採決直前の世論調査では「反対」が過半数を占め、「説明
不十分」も8割を超えていました。にもかかわらず、安倍政権は
数の力で強引に“採決したことにしてしまった”のですから、
政策がどれだけ民意とかけ離れていようと、有権者には政権の
暴走を止める手立てはないということです。“自民1強”の安倍
政権下においては、立法府が事実上機能不全に陥り、官邸が
提出した法案はセレモニーのごとくほとんど自動的に国会で承認
されてしまいますから。

そもそも議会制民主主義という制度は繊細な子供のようなもので、
常に健康に気を付けてやらないと病気になりやすいのだと思います。
有権者一人ひとりがこの制度を理解し、病の初期の兆候を察知
した段階で、投薬ならぬ投票行動によってこれを未然に防ぐことを
しないと、いつの間にか国会という臓器が機能不全に陥ってしまい
ます。そして、それを放置しておくと、形骸化した民主主義という
制度に、独裁という厄介な寄生虫が棲み付いてしまうのです。

それにしても、日本の今の政治状況は悪い条件が重なり過ぎて
いるように思います。衆参両院が“自民1強”であることに加え、
自民党内が“安倍1強”であるということが、現政権の独裁的な
傾向をさらに加速してしまっているのです。かつての自民党で
あれば、これだけ問題の多い欠陥法案に対して国民の批判が
日に日に高まっているという状況において、党内の良識派から
全く異論が出ない、などということは考えられませんでしたから。
自民党内の民主主義さえ機能していないのですから、自民1強
の立法府が機能不全に陥るのは当たり前のことです。

とは言うものの、この度の安保関連法案強行採決に至るまでの
一連の出来事は、日本の民主主義に負の作用のみをもたらした
わけではありません。何よりも、私たち国民が日本の民主主義の
脆弱さを思い知ったということは、大きな収穫だったと思います。
麻生副総理は一昨年、憲法改正をテーマにしたセミナーにおいて
「(改憲積極派は)ナチスの手口に学んだらどうか・・・」などと
口走ったそうですが、民主主義はもともと繊細な生き物のような
制度であり、主権者である国民が常にその健康を気遣い成長を
見守ってやらないかぎり、独裁主義者たちによっていつの間にか
悪用されかねないということを、自らの体験として理解できた
ように思うのです。

国会包囲デモも初めのうちは私のような年寄りばかりでしたが、
SEALsが結成された5月以降は、加速度的に若者たちの姿が
目立つようになりました。未成熟な民主主義社会においては、
デモのことを社会の混乱を招く悪しき行為であるかのように
思っている人も少なくありません。しかし、デモは「体に病原菌が
入ったとき正常な反応として熱が出るように、社会でまずいことが
起きたときの健全な反応」(小熊英二慶応大学教授)です。
SEALsをはじめとする怒れる若者たちのエネルギーは、この国の
健全なる民主主義の再生と成熟への大きな原動力となっていくに
違いありません。
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